美しさとノスタルジア -英国式サンドイッチの断面について-
美しいサンドイッチとは?
まず食パンは、フラゴナールの描く少女の肌のきめ細かさでなくてはならない。
それに挟まれる具材は、画家の本棚の色彩でなければならない。
パンをひとたび掴め痕がのこり、口に収めきるにはいささか分厚い肉が溢れ、指先にマスタードが付着する。
品行方正、純潔のルックスは、あっという間に人に馴染む。人を覚え、あるいは穢される。
そして私は指先のマスタードを舐めるのだ。
少し前から耳にするようになった、「沼サン」なるサンドイッチがある。どうやら流行っているらしい。
6枚切りの食パンにたっぷりのキャベツ、その他お好みの食材をはさんで、こぼれないように紙でつつみ、半分に切る。
そうして現れるのは具材が8割の色鮮やかな断面で、まるでサラダを四角く成型したみたいなサンドイッチだ。
そんな「沼サン」は正直完璧な直角を表してるともいえず、パンの存在感も薄い。英国式サンドイッチとは全くの別物のように思われる。
しかし断面はやはり美しい。切られることで美しくなる、サンドイッチの本分をきちんと体現している。その点においては私は「沼サン」を評価している。
逆説的に、サンドイッチは切られなければ美しさの本領を発揮しない。断面こそがサンドイッチを美しくさせているのだ。
もし切られていなければ、サンドイッチはぶっきらぼうなパンに挟まれた乱雑な具材にすぎない。そこを矯正し盛りつけられ、私たちに提供されるアーティフィシャルな美しさ。
いわば宮廷庭園の植木のようなものだ。自然を加工し、人為的につくられたものに美しさを見出す。サンドイッチ自体そもそも西洋発祥なので当たり前とも言えるが、自然を美とした日本的な感覚と比べると、サンドイッチの美しさは西洋的な美しさに分類される。
となると、私は西洋的な美しさに魅せられているのか?
必ずしもそうではない。
私はほんとうのところ、英国式サンドイッチの絵画的なビジュアルではなく、英国式サンドイッチの断面から匂い立つノスタルジーに魅せられているのだ。
私にとって綺麗に切り取られたサンドイッチは、ジノリ、もしくはロイヤルコペンハーゲンのカップに入ったブレンドコーヒーよりも大人の代名詞なのだ。
忙しく詰め込まれるものではない。薄暗い空間で、煙草をくゆらせながら、一人の時間を楽しむ大人のものなのだ。
もしくはワンピースを着て行くようなホテルのラウンジで、指先の動作にまで自然と神経が行き届くようになった大人がすまし顔で食べるものなのだ。
小さい頃の大人への憧れ、それを思い起こさせるものが英国式サンドイッチであり、自分の生きてきた年数、過ぎ去った月日を感じさせるものが英国式サンドイッチなのだ。
時間が止まったような空間で、オレンジの光がハムを照り輝かせ、レタスを無機質なものに見せる。
もはやその場で英国式サンドイッチの絵画的美しさはよく見えないものになってしまうのだが、私の美しいサンドイッチのイメージは、泥だんごばかり作っていた幼い頃の憧れの存在であり、二十歳を超えた今、ノスタルジーの対象となった。
だから、サンドイッチは美しくなければいけないのだ。
泥だんごと戯れる幼い私には手の届かない「大人の食べ物」でなくてはならないのだ。
常に同じサイズでカットされたサンドイッチの変わらない形式、それは私たちの時間を止める。
幼い頃に憧れた、美しい英国式サンドイッチのイメージは、もう消えることはないだろう。
いや、消えないでほしい。